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最高裁判所第一小法廷 昭和58年(あ)960号 決定 1983年11月01日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人山上益朗の上告趣意は、量刑不当の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

なお、刑法二三一条にいう「人」には法人も含まれると解すべきであり(大審院大正一四年(れ)第二一三八号同一五年三月二四日判決・刑集五巻三号一一七頁参照)、原判決の是認する第一審判決が本件日新火災海上保険株式会社を被害者とする侮辱罪の成立を認めたのは、相当である。

よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、主文のとおり決定する。

この決定は、裁判官中村治朗の補足意見、裁判官団藤重光、同谷口正孝の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官中村治朗の補足意見は、次のとおりである。

法廷意見は、刑法二三一条の侮辱罪の保護法益を同法二三〇条の名誉毀損罪のそれと同じく客観的な社会的名誉、すなわち人が自己の人格に対する社会的評価について有する利益としてとらえ、自然人以外の法人等についても自然人と同様の社会的名誉の存在を認めてこれに対する侮辱罪の成立を肯定すべきであるとする大審院判例の見解を支持するものであるのに対し、団藤、谷口両裁判官は、侮辱罪の保護法益を社会的名誉と区別された人の主観的名誉感情(ないし意識)としてとらえ、このような名誉感情をもたない法人等に対する侮辱罪の成立は否定されるべきであるとして、これと反対の立場をとられる。私は、右意見の説くところにも傾聴すべき点が少なからず存していることを認めるのに吝かでないが、前記大審院判例の見解を否定しなければならないほどの強い理由を見出すことができないので、法廷意見に同調したいと考える。以下、これについての私見の要旨を略述する。

名誉は、人と人との交渉過程から生れる人の人格に対する他者の評価の集積として客観的な存在を有し、かつ、かかるものとしてその人に帰属せしめられる価値たる性質をもつものであり、他方名誉感情は、このような事実の反映として人の心裡に生ずる情動ないし意識という主観的な存在であつて、両者は一応それぞれ別個のものとしてとらえることができるものではあるが、一般的にみて、両者の間にはいわば楯の両面というに近い密接な関係があることに加えて、名誉感情は、人の人格と深いつながりをもつ感情ないし意識であるとはいえ、右に述べたように、客観的な存在である社会的評価の反映としていわば後者を前提として成立するという性格を多分に帯有するものであることを考えると、法が、社会的名誉と切り離して名誉感情というような主観的なものを独立の法益としてとらえ、専ら又は主としてこれを保護する目的で法的規制を施していると認めるためには、そう考えざるをえないような特段の強い理由が看取される場合であることが必要ではないかと思う。このような見地から刑法二三一条の侮辱罪に関する規定をみると、同条が、その直前の二三〇条の規定する名誉毀損罪の場合と異なり、専ら又は主として社会的名誉と区別された名誉感情を保護の対象としていると解さなければならないような、特段の強い理由があるとは思えない。かえつて右二三一条が、侮辱罪の成立要件として名誉毀損罪と同様に行為の公然性を要求し、事実の摘示の有無のみを両者の区別の要点とするにとどまつているところからみれば、むしろ侮辱罪も名誉毀損の場合と同じく人の社会的名誉を保護法益として眼中に置いているとみるのが妥当であるように思われる。

これに反対する意見は、名誉毀損罪と侮辱罪との間には法定刑の著しい懸隔があり、このような差別の理由を専ら事実摘示の有無という行為態様の相違のみに置くことは、その合理性の説明として不十分といわざるをえず、むしろ保護法益の相違に差別の理由を求めるのが妥当であるといい、また、右の事実の摘示の点についても、この場合の事実がどの範囲のものを指すのかが不明確で、仮に大審院判例のいう「他人の社会的地位を害するに足るべき具体的事実」に限られるとすれば、侮辱罪における行為の内容をなすのは、結局対象者の人格的価値に対する侮辱者の主観的な否定的評価の表明という性質のものにすぎないこととなり、被侮辱者の社会的名誉に対する侵害としては極めて微弱で意義の薄いものとならざるをえず、このような法益侵害行為をとりあげて刑罰の対象とする合理的根拠は薄弱といわざるをえないと論ずる。

確かに、右の指摘がもつともな点を含んでいることは、否定し難い。しかしながら、一般に社会的評価を低下させると認められるような具体的、特定的な事実(このような事実のみが真実性の立証の対象となりうる適性を有する。)の摘示を伴う場合と異なり、このような客観的根拠を示さない単なる主観的な評価の言明にすぎないような言辞であつても、それが公然となされる場合には、それによつて被侮辱者に対する社会的評価にマイナスの効果ないし影響が生ずることは否定し難いところであり、少なくとも一般的にはそう受けとられているのではないかと思われる。そしてそうであればこそ、被侮辱者は、余人を交えないでされる単なる面前侮辱の場合に比していつそう深く傷つくこととなるものと思う。そうであるとすれば、この場合に特に法が右のような社会的評価の毀損の面を捨象して、専ら又は主として名誉感情の面のみを侮辱罪の保護法益としてとらえていると解さなければならない特段の強い理由があるとはいえず、右の社会的名誉の毀損の程度が事実の摘示を伴う名誉毀損罪の場合に比して遙かに低いために前記のような法定刑の隔差を設けたものと解することも十分に可能であり、それがしかく合理性を欠くものとは思われない(なお、名誉感情説は、侮辱罪の要件として公然性が要求されている理由として、一般に公然侮辱行為の場合が名誉感情を侵害する程度が大きいからであると説明するが、上に述べたとおり、それはそのために被侮辱者が自己に対する社会的評価にマイナスが生ずると受けとるからであると思われ、そうだとすると、むしろ端的にその要因をなす社会的評価の毀損それ自体を法益侵害としてとらえてしかるべきではないかとの反論も出されよう。)。

(なお、以上の議論は、社会的名誉と名誉感情との併存が認められる自然人の場合には、法適用上の技術的な面を離れてはあまり多くの実際上の意義をもたないが、本件におけるように自然人以外の法人等主観的名誉感情をもたない者に対する行為の場合には、これについて侮辱罪が成立するかどうかという重要な問題を生ずるのであり、否定説の背後には、法人等については侮辱罪の成立を認めるだけの必要性が乏しいとの考慮も働いているのではないかと思われるので、この点について一言しておきたい。私は、現代社会においては、法人等の団体は、その構成員を離れた社会的存在を有し、かつ、固有の活動を営んでおり、かかるものとして独自の価値主体たりうるものであつて、自己に対するさまざまな面からの社会的評価に対してはそれなりの関心と利益を有すると認められるから、これを自然人の場合と同様に独自の保護法益としてとらえることは、決して無意味とはいえないと思う。そしてこのことは、営利法人の場合も同様であつて、その主たる目的が経済的活動であるからといつて、その者の支払能力その他の経済力に対する評価等直接その経済活動に影響を与えるもののみがその関心事であり、これのみを考慮すれば足りるとはいちがいにいいきれないものがあるのではないかと考える。もつとも、これらの点は、ひとり侮辱罪に限らず名誉毀損罪についても生ずる問題であつて、法人等についてもこれらの罪を認めるべきかどうかは立法論としては大いに問題とされてよいであろうが、もとよりこれは別個の問題である。)

裁判官団藤重光の意見は、次のとおりである。

侮辱罪(刑法二三一条)の保護法益を名誉毀損罪(同法二三〇条)のそれと同じく客観的な社会的名誉(人格的価値の社会による承認・評価)とみるか、それとも主観的な名誉感情とみるかについては、学説の対立があるが、通説および大審院の判例が前説を採つているのに対して、わたくしはかねてから後説を支持している(団藤・刑法綱要・各論四一三頁以下)。

けだし、何よりもまず、名誉毀損罪の法定刑が三年以下の懲役・禁錮を含む相当に重いものであるのに対して、侮辱罪のそれが単なる拘留・科料にとどまつていることは、事実摘示の有無というような行為態様の相違だけでは説明が困難であつて、より本質的な保護法益そのものの相違にその根拠を求めなければならないのである。のみならず、侮辱罪の規定では「事実を摘示せずして」ではなく「事実を摘示せずと雖も」とされているのであるから、行為態様の相違としての事実摘示の有無ということも、文理上どこまで強く主張されうるか、疑問の余地がないわけではない。しかも、実際に、侮辱罪の事案の多くは、なんらかの意味における事実の摘示を伴つているのである(現に本件もそうである。)。そこで、事実摘示の有無に両罪の区別を求める立場からは、「事実」の意味を限定する以外にないのであつて、大審院の判例によれば、たとえば、「侮辱罪は事実を摘示せずして他人の社会的地位を軽蔑する犯人自己の抽象的判断」を公然発表するものであるのに対して、名誉毀損罪は「他人の社会的地位を害するに足るべき具体的事実」を公然告知するものであるとされる(大審院大正一五年七月五日判決・刑集五巻三〇三頁)。この判旨を突きつめて考えれば、「他人の社会的地位を害するに足るべき具体的事実」にかぎつて両条にいう「事実」にあたるものとし、「他人の社会的地位を軽蔑する犯人自己の抽象的判断」を支えるにすぎない程度の事実は、ここにいう「事実」にはあたらないものと解するわけであろう。したがつて、事実摘示の有無という標準も、その限界はかなり微妙なものになる。さらにいえば、「他人の社会的地位を軽蔑する抽象的判断」の公然発表という行為は、社会的名誉そのものを保護法益とみるかぎり、保護法益の侵害に対して遠い危険性を有するだけの、きわめて間接的な関係に立つにすぎないことになる。わたくしは、もつと端的な保護法益を他に求めることができるとすれば、それによるべきものと考える。そうして、名誉感情を保護法益とみる考え方が、この点ではるかにすぐれているとおもうのである。

もちろん、名誉感情という主観的なものを保護法益とすることについては、被害者の名誉感情の個人差の問題や証明の問題がある。しかし、前者は行為の定型性の見地から解決されるべきであり、後者は――名誉毀損罪における社会的名誉についていわれているのと同様に――名誉感情の現実の侵害を要件としないことによつて解決されるべきである(団藤・前掲四一四頁)。刑法二三一条の規定が公然性を要件としていること、しかも面前性を要件としていないことも、名誉感情を侮辱罪の保護法益とみることに対する本質的な批判となるものではない。

このようにして、わたくしは名誉感情を侮辱罪の保護法益と解するのであつて、この見地からすれば、法人を被害者とする侮辱罪の成立は当然に否定されるべきことになる。わたくしは、人の社会的地位を侮辱罪の保護法益と解する前記大審院判例、ひいては人格を有する団体を被害者として侮辱罪の成立をみとめる大審院判例(大審院大正一五年三月二四日判決・刑集五巻一一七頁)は、変更されるべきものと考えるのである。

したがつて、私見においては、原判決の支持する第一審判決が岩崎英世に対する関係においてのみならず日新火災海上保険株式会社に対する関係においても侮辱罪の成立をみとめたのは、刑法二三一条の解釈適用を誤つたものといわなければならないが、わたくしも谷口裁判官の意見と同趣旨において、原判決を破棄しなければいちじるしく正義に反するものとはいえず(刑訴法四一一条)、結局、上告は棄却を免れないものと考える。

裁判官谷口正孝の意見は、次のとおりである。

一 刑法二三一条所定の侮辱罪の保護法益を、名誉感情・名誉意識すなわち人の社会的価値に関する主観的評価と考えるか、それとも名声すなわち人の社会的価値に関する社会的評価と解するかについては争いのあるところである。思うに、侮辱行為は相手の名誉感情を侵害すると同時に人の社会的評価をも低下させることになるであろうから、現行法がそのいずれの面に着眼して規定されているかは、学説のいうように専ら現行法の解釈として確定されるべきことであり、その際右二三一条の法文の構成と同二三〇条一項の名誉毀損罪との比照が問題となるであろう。

二 ところで、判例は一貫して「刑法第二三一条所定の侮辱罪は、事実を摘示せずして、他人の社会的地位を軽蔑する犯人自己の抽象的判断を、公然発表するによりて成立するものなるに反し、同法第二三〇条第一項所定の名誉毀損罪は、他人の社会的地位を害するに足るべき具体的事実を、公然告知することによりて成立する」(大審院大正一五年七月五日判決・刑集五巻八号三〇三頁その他)として、刑法二三〇条一項所定の名誉毀損罪も同二三一条所定の侮辱罪も、ともに人の価値に対する社会的評価、すなわち名声を保護法益とするものと考えてきた。両罪のちがいは、専らその手段の相違、すなわち事実を摘示するか、しないかのちがいということになる。私としても、侮辱罪の保護法益を人の価値に対する社会的評価と解することについて相応の理由のあることを認めるのに吝かではない。

三 然し、右二三一条が相手方の面前における侮辱を処罰せず、名誉毀損罪におけると同様に公然性をその要件としていることを理由に侮辱罪の保護法益を右のように解すべきであるとすることには疑問を感ずる。なるほど相手方の面前における侮辱は、公然侮辱の場合に比べて相手方の名誉感情をより大きく侵害する場合もあろう。然し、公然性を要件としているからといつて直ちに侮辱罪の保護法益を右の如く理解しなければならないわけのものではなく、相手方の面前における侮辱はわれわれの社会生活上とかくありがちのことであるとして、その行為に可罰性を認めず、公然侮辱という例外的な場合に限つてその可罰性を認めたものと説明することも十分可能である。

次に、侮辱罪の保護法益を名誉感情・名誉意識だと考えると、名誉感情・名誉意識というのは完全に本人の主観の問題であり、それには高慢なうぬぼれや勝手な自尊心もあるはずで、かような不合理な意識までを刑法で保護する必要があるかは疑問であるとする主張がある。名誉感情・名誉意識に対する侵害はモラルの問題であるとするわけである。極めて傾聴すべき見解である。たしかに、名誉感情・名誉意識というのは完全に本人の主観の問題ではある。然し、公然侮辱するというのは日常一般的なことではない。名誉感情・名誉意識がたとえ高慢なうぬぼれや勝手な自尊心であつたにせよ、現に人の持つている感情を右のように日常一般的な方法によらずに侵害することをモラルの問題として処理してよいかどうかについてはやはり疑問がある。可罰的違法性があるものとしても決して不当とはいえまい。侮辱罪の保護法益を人の社会的価値に関する社会的評価としなければ可罰的違法性を導くことができないものとは考えられない。けだし、そのように構成してみても、人の社会的価値に関する社会的評価の侵害は抽象的危険犯として構成せざるをえないわけで、その実質的危険の有無は極めて微妙なものがあるのにかかわらず、その場合には可罰的違法性を認めるのに異論のないことが対照されてよい。

さらに、名誉毀損罪と侮辱罪との保護法益を同じく人の社会的価値に関する社会的評価であると考え、両罪のちがいを専ら事実の摘示の有無に求める場合、両罪に対する法定刑の極めて顕著なちがいをどのように説明するのか。私は、名誉毀損罪が人の社会的価値に関する社会的評価といういわば客観的なものであるのに対し、侮辱罪が名誉感情・名誉意識という主観の問題と解することによつて、両罪の間に可罰性の程度のちがいがあり、そのことが両罪の法定刑の右の如きちがいを導いているのだと考える。

以上の次第であつて、私は多数意見と異なり、侮辱罪の保護法益を名誉感情・名誉意識と理解する。

団藤裁判官の所説に賛成する所以である。

四 私はこのような理解に従えば、本件において法人を被害者とする侮辱罪は成立しないことになる。(従つて又幼者等に対する同罪の成立も否定される場合がある。このような場合こそはモラルの問題として解決すればよく、しかも、侮辱罪は非犯罪化の方向に向うべきものであると考えるので、私はそれでよいと思う。)然し、本件については、第一審判決判示の岩崎英世を被害者とする侮辱罪及び軽犯罪法一条三三号の罪の成立は肯定されるので、第一審判決が日新火災海上保険株式会社を被害者とする同罪の成立を認め、原判決がこれを肯認した違法は未だ刑訴法四一一条一号に該当するものとは考えられない。上告は棄却されるべきである。

(和田誠一 団藤重光 藤崎萬里 中村治朗 谷口正孝)

弁護人の上告趣意<省略>

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